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理工同窓会のあゆみ

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理工同窓会のあゆみ

名城大学理工同窓会のあゆみをご紹介いたします。

第1章 前史

第1節 同窓会前史

高理工校友会一名古屋科学工棠会当晴の思い出

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我々の母校、名城大学の前身を尋ねると、名古屋高等理工科講習所として誕生したと云われ、大正15年5月1日に名古屋市中区七本松町の尾張商業学校の校舎を借りて創設されたと記録に残っている。その後、昭和2年3月12日に文部省の認可を受けると同時に、名古屋高等理工科学校として正式に開設された。場所は昭和3年3月に名古屋市中区新栄町3ノ16の、すでに廃止された古い郵便局の2階建を借り受けて、前記の仮校舎より移転し、俗に東新町校舎と呼ばれていた所である。

創立者は、未だに記憶に新しい田中寿一氏で、明治40年、蔵前高工(現東京工業大学)首席で卒業、逓信省の技術課に採用されたのを皮切りに、九州の明治専門学校の助教授に任命され、次いで東北大学の物理研究室で2年感学び理学士の称号を授けられ、東芝へ入社、まもなく東北大学の助教授に迎えられ、ドイツのベルリン大学に留学した。その後創設期の浜松高工の教授に迎えられ、2代目校長と意見の相異から衝突して野に降った人であると高理工創立期の生徒の一人が記述している。当時百万都市と云われた大名古屋において勤労青年の勉学の道が非常に少ないのを憂えて、向学の機会を彼等にも与えるために夜学校の開設を決意されたものであり、田中寿一先生の研学の精神は当時の生徒をして、今なお深い感懐と追慕の念を起こさせるのである。
昭和3年3月に第1回卒業生を世に出しているが、この当時は、卒業生数は夜間部のみで、電気科の4名と数学科の1名の計5名と記録に残されている。当時は、このように卒業生も数少なく正式な同窓会としての動きはなかった。むしろ今でいう生徒会の活動がなされておったようで、新入生の歓迎会やら先生との懇談会が主目的であった。昭和5年頃の記録によると組織も充実し、「名古屋高等理工科学校校友会」と称せられ、会長は田中寿一校長が兼任した。ほとんどの行事が学校側の世話で行なわれ、会費は授業料と一緒に半か年或いは1か年分を学校に前納しており、事業の計画および実施は、総務部、文化部、弁論部および運動部の4部門より構成されており、半年毎にクラス間で各部1名の役員を人選して学校側へ報告し、校友会長より任命の辞令が交付されたものである。
文化部は「高理工」という雑誌を出していた。運動部としてはテニス部があったが、勤務の関係で公式試合に出られない状態であった。しかし弁論部だけが非常に盛んで年2回の大会を開催し、時には東北地方まで遠征した懐かしい思い出があると長老が語っていた。特に椎尾詞先生の指導に負うところが大であった。
さて、同窓会形式が現われたのは、昭和も9年を経過した頃であった。それまで僅少であった卒業生も、ようやく100名を超える状態となったので、これを機会に当時あった各科即ち、工科系の電気科のほかに理科系の数学科、物理科および化学科を含めて校友会を独立させる機運が高まってきたものである。すでに各職場では卒業生のグループが校友会との緊密な連絡と親睦を図るため、例えば一つの例として昭和9年1月5日には高理工遮友会というグループが誕生した。こうして校友会の独立を早期に図るため名称、会則の起草準備に若松寿男(8回卒)を始め宇高猛(9回卒)小島末吉(2回卒)および大山厳(3回卒)の4氏が協力し、着々と準備は進んだ。役員に対し昭和9年6月1日付で推薦状が「名古屋科学工業会」の名で発行され、翌7月1日付で正式に同会は創設された。
この創設に当たっては名古屋工業大学前学長の清水勤二先生や、日本式ローマ字と二進法数学研究会の椎尾詞先生の絶大な協力があったことを銘記したい。
名古屋科学工業会の名称は、当時名古屋高等工業学校にあった「名古屋工業会」と区別するため「科学」の二字を加えたものだと長老が語っている。
こうして初めてできた同窓会の初代会長は、黒田定義氏(1回卒)が就任し、副会長には熊沢鋭一氏(1回卒)、理事長には佐藤正吉氏「(3回卒)が選ばれており、この創立には若松寿男氏が若手として活躍をされ、同9年8月20日には、氏の編さんに成る初刊の会員名簿が発刊され、ここに名実共に同窓会として栄える道がついたのである。ちなみに、当時の会費は、正会員は入会金金壱円、会費毎年金参円、但し一時金参拾円を納入したものは以後納入を要しないとある。この名簿は昭和10年にも補追されて発行されているが、その後の名簿は見当たらない。
この頃から同窓会の活動は活発にはなったが、反面、兵隊に行く人も増えてきて、名簿も整理ができず、支那事変が勃発するに及んで応召されたり或いは、戦死されたりして、会費も納まらないということで財政的にも苦しく、一時中断になったというのが、その後の会の実情であろう。一方、職場ごとには、それぞれ名称をつけ会員の動静をつかんで科学工業会と密接に連絡をとってやって行こうということで、その生命は消えることなく、戦後「名城大学理工会」として復活している。

学校のその後の姿を記録に留めるならば、昭和8年に中等部を新設し、昭和13年に登間部高等科も新設され、昭和14年には中区名古屋市中区不二見町に元皇華高等女学校の廃校跡の校舎を借りて移転したが、次いで昭和16年4月に至って名古屋市中村区新富町に校舎を新築移転し、ようやくにして借家から安住の地を得た。これが今の中村校合であり、大学へと発展を遂げる母体となったものである。

第2節 同窓会沿革

学部同窓会の結成 → 全学同窓会の芽ばえ

名古屋高等理工科学校は、終戦後の昭和22年9月に名古屋専門学校に昇格し、次いで学制改革によって昭和24年3月には名城大学の発足を見た。当時大学としては商学部のみで発足しており、翌25年になって法商学部、理工学部ならびに農学部が設立されている。昭和29年になって薬学部が設立された。
昭和28年に第1回の大学卒業生が出るに至って法学科では、専門学校法政科の卒業生と一緒にやろうと親睦会形式で始めたのがきっかけとなり、同年3月22日に、名古屋市中区の伏見荘で第一部、第二部合せて「名城大学法友会」を発足させた。当時は同期会でもあったので、形式的なことはやめ、代表幹事という名のもとに、一部から酒井敬美氏(法1回卒)、二部から篠田忠氏(法1回卒)が選ばれている。昭和43年11月23日の総会で名称が「名城大学法学部同窓会」と改称された。

次に昭和28年になって、第二理工学部数学科の卒業生を世に出したのを機に、長い歴史をもつ名古屋科学工業会は同年9月1日に理工系各科の卒業生を会員とする「名城大学理工会」を設立し、名古屋科学工業会は発展的に解消した。初代会長には春田喜一郎氏(高理工2回卒)が選ばれた。しかしその後、学園紛争が起こったが、同窓会活動を重視する人達により昭和36年8月31日になって「名城大学理工学部同窓会」が設立された。そして翌年、中村校舎において、理工会は理工学部同窓会に合併し、会長には岡野正義氏(専1回卒)が選ばれた。

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一方、在学中共に学生会活動やクラブ活動をしてきた仲間が、名城大学の卒業生の会を創ろうと、昭和28年3月5日に「名城大学同窓会設立準備委員」を選出した。主なメンバーは、第一法科岩田正雄·酒井敬莞·武田信夫·岩田羲正、第一商科山田昭治·剃飼久夫·越山一男·淺見義輝·
工匠忠雄·越三郎、第二法科條田忠·安藤忠男、第二商科大鷹貢·工藤市兵衛、第二數字科祖父江三千人の諸氏(各1回卒)である。この準備委員会で東西各大学同窓会の状況を調査の結果、一ツ橋大学の如水会の方法を参考にすることが好ましいと考え、この制度を参考に、翌昭和29年2月7日、名古屋市中区栄町のニューボン2階において設立総会を開いた。出席者は商科76名中58名、法科10名中7名で、第二部の卒業生については、法・商・数ともに準備が遅れたため、次年度までには加盟できるよう努力するとの報告があり、この報告を了承した。こうして「名城大学同窓会」は設立され、初代会長には第一商科の山田昭治氏を選んだ。
しかるに、同窓会にとってはなはだ残念な事件が発生し、これがこの同窓会の発展に強いブレーキをかけてしまった。というのは、昭和29年6月14日の学生大会の決議により学生等は、大学の民主化などを要求して6月15日からストライキに入ってしまったのである。同窓会は翌16日に幹事会を招集して善後策を協議し、事態を見守るうちに、教授会は解決策に関する声明を発表した。この取扱いについて、6月21日に幹事会を開き、教授会の声明を支持する態度を決めて学生会への幹旋に乗り出した。翌22日に学生会から事態の収拾について白紙一任を受け、努力を続けた結果、ストライキも解かれて、6月23日には、教授会に正式に会見し、今後の独立運営制による学園の民主化を約して、同窓会の緊急態勢は解かれた。しかし、その後も学園紛争は、ますます深刻となり、理事長退任を求める声は内外をゆさぶった。そのため昭和29年11月13日付名城大庶第341号理事畏田中寿一名で「理事長総長田中寿ーの進退問題について」との議題で同11月15日午後1時から理事会を招集し、その席上に各会の意見を聞くべく5団体の代表を招集したが、その中に名城大学理工会代表と名城大学同窓会代表の名が出ており、名城大学の同窓会は、ここに学園紛争の歴史と共に二つの会が対立しているような印象を後々までも与える結果になってしまった。
しかし、理事会において退任を一度表明された田中寿一氏は、法的には未だ理事長であるとして名古屋地方裁判所に提訴されたため、事態は急速に悪化し、法廷闘争に移ったので昭和30年1月に入って名城大学同窓会は、混乱を心配して昭和29年卒業生の入会の手続きを中止してしまった。
その後、昭和30年も暮れようとする師走の11日に、当時事務長をしていた永田金正氏の努力が実り、金山校舎において第二商科同窓会の設立準備の発起人会が開かれており、数回の協議の末、翌31年2月19日午後1時から、金山校舎において創立発会式が第1回総会を兼ねて盛大に開催され、「名城大学第二部商科同窓会」が誕生した。初代会長には工藤市兵衛氏が選ばれた。昭和42年商学部の独立に伴い「名城大学第二商学部同窓会」と改称されている。
これに続いて同31年4月1日には、春日井市の鷹来校舎において「名城大学農学部同窓会」が設立され、初代会長に中川対武氏(1回卒)が選ばれた。

昭和32年に入って名城大学同窓会では、同窓会内部に田中、反田中の派閥を作って対立するのを恐れて29年卒の会員より受入れを無期限に中止していたが、母校の紛争問題も早期解決の望みがなくなり、また問題の焦点も法廷闘争にしぼられてきたので、同窓会本来の役割を果たすべく幹事会にて会具受入れを決定し、29年3月より32年3月まで受入中止期間の空白を埋めるとともに、名城大学同窓会を全学的な同窓会にするべく、各学部、各学科、各年次の別に1クラス2名の発起人を選び、その発起人会の議題として、(1)会則の承認を求める件(2)役員の選出に関する件、の2案件を上程し、若しその席上において議題として母校の紛争問題が提案された場合は、流会とすることを申し合せた。10月21日夕刻から菊井校舎において発起人会を開き、議長に第二理工数学科卒業の祖父江三千人氏を選んで、青松好三氏(一商3回卒)が経過説明を始めた所、発起人以外の人々が会場に乗込み、会場はたちまち混乱して収拾がつかなくなったため、主催者側は流会を宣言して退場してしまった。その後に残った人々の手により声明書が作られ、次のような決議文となって発表されている。

決議文

1、吾等名城大学各同窓会は、今回発表せられたる調停案に対し、双方互譲の精神を重んじて、右案を受託し、早期解決せられることを望む。
1、今後如何なる事態になるも我等同窓会の決議を尊重されたい。
右声明す。
昭和32年10月21日
名城大学第二部商科同窓会
代表 工藤市兵衛㊞
名城大学同窓会理工会
代表者 春田喜一郎㊞
名城大学晨学部同窓会
代表者 橘本実㊞

翌昭和33年5月には、第一法商学部商学科が名古屋市中区の大須にある三輪神社の社務所において総会を開き「名城大学商友会」を設立したので、
法商の同窓会はそれぞれ分離することになり、ここに名城大学同窓会は自然に発展的解消することとなった。初代商友会会長には山田昭治氏が選ばれた。
また、時を同じくして、昭和33年5月に八事校舎において「名城大学薬学部同窓会」が設立され、初代会長には、鈴木良雄氏(1回卒)が選ばれている。

第2章 発足

第1節 まえがき

校友会本史の同窓会前史でくわしく述べられているとおり、開学以来60余年の歴史を持つ理工学部同窓会も、幾多の苦難の道を乗り越えて今日に至った。初期の頃は、各科ごとのクラス会であり、又学校側が世話をしていたもので、名古屋高等理工科学校校友会と称した時代から、名古屋科学工業会、理工会、そして昭和37年11月11日、現在の理工学部同窓会が発足した。同窓会発足前、既に存在していた数学会、機械会に加えて昭和37年には電気会、昭和38年に建築会、昭和39年には土木会が相次いで設立され、これに伴って同窓会の運営はもちろん、大学、学生との連絡も円滑に運ぶようになった。更に、時代の流れに沿って交通機械学科が新設され、昭和44年には第1回の卒業生を世に送り出し、翌年に交通機械会が発足した。この様に、理工学部同窓会は、6学科の同窓会、すなわち下部組織と常に密接な連繋を保ちながら、会の発展に努力してきた。

第2節 理工会と理工同窓会の発足から合併まで

昭和36年春、一部の有志で理工系の卒業生を単位とした同窓会の組織を作ってはという声が起こり、それに呼応して、50名におよぶ発起人が集まり、前後4回にわたり同窓会設立の準備打合せが行なわれた。何分急なことで、集まった発起人は割合新しい卒業年度の人が多く、名城大学理工会の状況を知る人はほとんどなく、さしあたり、名古屋専門学校以降の卒業生を正会員とする同窓会を設立してはとの話合いに落着き、今後大いに検討すべき問題を残しながらも、名城大学理工学部同窓会は発足した。なお、理工会は、前身校の名古屋高等理工科学校専門部ならびに高等部、名古屋専門学校応用物理科、数学科の卒業生で組織されていたが、昭和30年頃から学内紛争も加わってその活動はほとんど停止の状態であった。もちろん、理工会との関係については、理工学部同窓会の設立準備打合せの席上でも話題にのぼり、充分話し合い理工学部同窓会の設立趣旨を理解してもらうよう努力すべきであるとの意見が大勢をしめていた。また理工学部同窓会の設立総会においても問題として提起され、役員は全力を尽くして話し合い、円満解決をはかることを約束した。第1回目の話合いは、双方から10名程度集まり、まず理工会側から設立の背景、経過、活動の状況についての説明をきき、理工学部同窓会側は、立の趣旨と前身校の卒業生を含めた理工学部関係者全員を正会員としたいむねを述べ、お互いに忌悼のない意見の交換を行なった。第2回目の話合いでは、理工会と理工学部同窓会の一本化が合意に達し、相互の会則を検討した上で両者の意向を持寄り、合意の上、新会則で合併に踏み切ることが確認された。第3回目は、会則案の審議と、合併後の名称案を決定、理工会から合併の準備委員として、若松寿男、伊丹算一、田中津太雄の3氏が選ばれ、この3氏と理工学部同窓会役員の間で具体的な話合いをすすめることになった。

第3節 同窓会の活動について

昭和37年に役員の選出母体である各学科の同窓会を整備すると同時に発足をはかり、昭和39年には5学科の同窓会が活動を開始した。のちに昭和45年、交通機械会が加わり現在では6学科の同窓会となっている。
これらの各学科同窓会を統括していくために、毎月1回程度の拡大役員会を開き常に密接な連携をとって運営してきたが、毎年開かれる総会及び会報の発行等も一助となり強力な組織として発展しつつある。
又毎年50万円程度の図書を理工学部図書館に寄贈し、学生の研究と勉学に供していることは特筆すべきことである。
一方当理工学部出身の本学教職員で最近国内外への留学及び研究発表のための海外出張が多くなり、これらに対する援助と、定年退職の諸先生への感謝状、記念品の贈呈、卒業記念品の贈呈等と、きめ細かい活動を行っている。
本会は、会則に則り各学科同窓会選出の評議員で構成する評議員会と、評議員会が推薦し総会において承認された、会長、副会長、幹事で構成する役員会で、各学科同窓会に関連した共通事項は、会長間で相談し処理するなど、各学科同窓会の協力を得て円満な運営を図っている。
同窓会活動の唯一の情報の伝達手段である名城大学理工学部同窓会会報は第32号(昭和61年)から、校友会会報に合併して編集発行することにした。この趣旨は、総合大学に相応しい各学部、各学部同窓会の話題も知り得る利点にあると思われる。今後共、多くの有用な情報の提供を期待する。
校友会に対しては現在13名の代議員(一部5名、二部5名、高理工一部・二部3名)を送り校友会の所期の目的達成のためご尽力頂いている。
また、校友会推薦の学校法人名城大学の評議員として、かつては田中丸福男氏、梶田啓二氏、五十嵐昇氏を送り、現在は、岡野正義氏、中村亮氏が選任されご活躍中である。
本会では、創立者田中寿一先生の功績を永遠に顕彰するため銅像の建立を計画し、10年来その基金を積立てて来た。
本学創立60周年の昭和61年は、田中先生の生誕100年にも当り、この意義ある年に計画の実現を果たすべく準備万端整えて来たつもりではあったが、事情あって断念せざるを得なくなってしまった。障害を取除き一日も早く、校内の何処かで発展する名城大学を見守って頂きたいと願っている。
経常的な本会の事業、行事の他にも多彩な行事も行われた。年次を追って紹介する。
昭和51年11月3日、理工学部、理工学部同态会主催の、理工学部50周年祝賀会を名古屋観光ホテルで開催した。
大学の関係者、来資の方々、高等理工科学校・名古屋専門学校・名城大学理工学部で教鞭をとり本学の発展のため尽力された方々、同窓生の約1000名が参加し、式典と祝賀のパーティーが催された。
この50周年を記念して、名古屋高等理工科学校時代からの貴重な資料や写真を収め、理工学部同窓会の活動などを紹介した「名城大学理工学部の歩み」を発刊し、参加者に贈呈した。
昭和51年10月30日、名城大学理工学部役援会莞足、理工学部同窓会は、理工学部発展への寄与と、学生の健全な発達を図るべく、後援会の設立を積極的に推進した。会員は主に理工学部在学中の学生の父兄ではあるが、本会からも顧問、委員を送り運営に携わっている。
昭和53年9月23日、名城大字30周年記念行事開催、これは、昭和24年2月21日付で設置が認可された名城大学発足から起算したものと思われる。
この年はまた、校友会設立20周年にもあたり、記念式典が挙行された。理工学部同窓会、各学科同窓会も両記念行事に協賛し、当日総会を開くなど、多くの会員の参加を得、行事を盛り上げた。
開学30周年を契機に、「教育・研究施設整備拡充計画」の基本構想が発表され、その計画の総ては昭和61年3月実現した。

昭和61年9月22日、開学記念日を中心に、名城大学開学60周年記念行事として大学では教育・研究施設の竣工披露、記念講演会、記念コンサート等が催された。校友会、校友会各支部、各学部同窓会主催の協賛行事も、好天にも恵まれ盛会に終った。

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理工学部60周年記念祝賀会 大西妖ー学部長の挨拶
(於、名鉄グランドホテル、S61年11月8日)

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理工学部60周年諡念祝贺会 乾杯の音頭をとる岡野正義理工学部同窓会会長
(於、名鉄グランドホテル、S61年11月8日)

昭和61年11月8日、理工学部60周年祝賀会を、理工学部、理工学部後援会、理工学部同窓会の共催で500名を超える来資、教職員、同窓生諸兄姉の参加を得て、名鉄グランドホテルで開催した。記念講演を、トヨタ自動車常務取締役沼沢明男氏にお願いし、多くの人々に感銘を与えた。
昭和62年11月、就職に関する講演会を開催した。講師は、ブラザー工業株式会社取締役人事部長清水有氏で、就職に対する心構えと対応など、採用する側からの観点、留意事項など直接求人に携わる責任ある立場からの率直な助言を拝聴し、有益であった。
この講演会は、準会員(理工学部在学生)に対する同窓会活動の一端として試みられたが、関心も深く有意義だと思われるので、今後も年一回程度継続して実施する方針である。
昭和63年9月25日の校友会創立30周年記念事業に対しては、本会選出の代議員を中心にこの記念事業を成功させるべく、積極的な協力態勢を整えている。 記念祝賀パーティーの行なわれる名古屋観光ホテルで、理工学部同窓会、各学科同窓会の総会を開催、多くの会員諸兄姉の参加を要請した。

第4節 数学会発足

数学会は当初同窓会としてではなく、数学科の教員および在学生を会員として創められた。数学科としての第1期生が在学3年生であった昭和26年、加藤平左衛門教授の発意を受けて在学生が活動の母体となり、加藤教授を会長にいただき、後藤魯一教授らの熱心なご指導のもとに活動した。その中心は数学会雑誌発刊であり、これには先生方の学術論文や学生向きの解説記事を掲載した。同年発行の第1巻第1号の表紙の一部が125ページの写真に見える。
昭和28年に第1期卒業生が世に出ることになり、このとき加藤教授らの勧めを受けて祖父江三千人氏(大二28卒)ら有志により、この会を卒業生にとっても将来の勉学研究の場とし、それを通じて先生、在学生、卒業生の親睦を図ってゆく会として継続してゆくことが話し合われ、規約もつくられた。そして数学会雑誌には先生方の研究論文ばかりでなく、卒業生の現場での数学教育研究や、会社や工場でとらえたテーマについての研究を発表した。このことが数学会の特質であったと同時に、卒業生にとって大きな励みとなり、卒業後の勉学研究、社会での活躍、発展の助けとなった。さらに、毎年1回開かれる総会の際には、学内外の諸先生による学術講演が習わしとなり、そのあとの懇親会とともに同窓生の楽しみであった。
以後このような形で発展してきたが、卒業生の増加につれ、雑誌に卒業生名簿や近況報告などを載せ、徐々に数学科卒業生の同窓会的性格をつよめ、当初在学生に負わせていた会の実務も学内の卒業生らが行なうようになった。
昭和37年11月理工学部同窓会発足とともに、数学会はその支部的性格も併せてもつこととなり、理工同窓会への役員選出も数学会役員選出と同時に行なわれるようになり、また在学生は準会員とするように規約が改正された。
加藤教授の退職に伴い第2代会長に沢嘉也教授が就任され、活動を続けてきた。第3代会長には祖父江三千人氏を迎え、卒業生が全役員の任に就き、数学科卒業生の同窓会としての体制を充実させ、活動してゆくこととなった。
昭和51年11月、名城大学理工学部50周年記念に際し、祝賀会等の記念行事に多数の協力者を得、数学会の団結と親睦を深めることができた。
昭和56年、これまで数学会の活動として鋭意努めてきた会員名簿の整備も一段落したので、名城大学数学科会員名簿を発刊し配布した。
この名簿には、数学科教職員、学内数学科担当職員、退職された先生方をはじめ、名古屋専門学校数学科昭和24年3月第1回卒業生から、名城大学理工学部数学科昭和55年3月卒棠生(一部第13回、二部第28回)に至る約1千名が収録された。しかし、消息不明者や修正を要する者がかなりあったので、引き続き整備に努めた。
現在では、作業の合理化を図り、同窓会上部組織である校友会の原簿を基に整備を進めている。今後数学会名簿は、必要に応じ原簿から抽出、発刊することとした。
昭和57年、第4代会長に石井静夫氏が就任、活動を続けた。当時最大の悩みは、役員会や総会の出席者が少ないことであったので、会報等を通じ、会員の協力を強く訴えた。
昭和59年、第5代会長に橋本吾郎氏が選出され、従来通り、卒業生への記念品、講演会・謝恩会補助、企業・学校説明会への援助等の活動を推進した。特に、61年秋の名城大学開学60周年記念事業に当たって、同窓会の下部組織としての役割分担の遂行に努めた。
記念事業の一つである校友会名簿の発刊については、広告の協賛に一部会員の格別の協力を得た。また、この名城大学開学60周年記念行事と並行して開催された理工学部60周年祝賀会にも多数の参加者を得、気勢をあげることができた。
現在、数学会会員1,319名(昭和61年度卒業生まで)。他学科の会員と比較して、○会員数が最も少ないこと、@二部卒業生が多いこと(約37パーセント)が特徴である。
卒業生の就職先も変化している。従来の公務員、教員主流から、民間企業主流へ逆転してきた。職域もソフトウェア、コンピューター関連企業への幅広い進出も目立っている。

因みに61年度一部卒業生63名の動向は、53名(約84パーセント)が民間企業、その他で占め、10名(約16パーセント)が公務員、教員となっている。

第5節 電気会発足

名城大学電気会が発足した昭和37年9月13日は、前身校の名古屋高等理工科学校が開校されて38年目、大学に昇格して第1回の卒業生が世に出た昭和29年からかぞえても9年目にあたり、その設立が遅きに失した。
その時卒業生の数は、名古屋高等理工科学校の200余名と、専門学校850余名、大学1,700余名で総数2,800名にのぼる大世帯であった。しかし当時は10年になんなんとする大学紛争の最中でもあり、このような時期にこそ卒業生がより結束する必要があると考え、親睦は勾論のこと学術面からも大学と連絡を蜜にし、名城大学電気工学科の発展に寄与する目的で、名城大学電気会設立の第1回準備委員会が昭和36年8月に、理工浮部会議室で開かれた。設立趣旨の説明、会則案の審議、役員評議員候補者の推薦等の大綱を決め、9月中旬には設立総会を開催できるところまでこぎつけたが、諸般の事情から名城大学理工学部同窓会の設立を優先し、その方へ重点をおいたため、電気会の設立は停滞してしまった。
昭和37年7月には第2回の設立準備会を開き、前年来の経過報告、会則案の審議等を行った。
以後3回にわたる準備委員会で慎重な審議を重ねた結果、第1回の準備委員会が開催されてから1年余を経て、ようやく陽の目を見ることになった。初代会長には服部誠治氏(二高理電13回卒)が選ばれ、第2代若松寿男氏(二高理電8回卒)、第3代落合靖氏(一専電3回卒)がこれに続いた。
現在の活動状況は、毎年の定期総会で発表している事業計画の承認を得た上、これに従って実施しているが、その主なものは、まず卒業記念品の贈呈、名簿の充実、会誌の発行等である。
又昭和37年12月発刊の会誌の創刊号には、当時名誉会長の野ロ孝重教授に、会誌に対する貴重なる御意見を賜り記載したり、その年の事業計画及び報告が詳しく記してあるため、会誌を見れば本会のあゆみが伺えると同時に、本学の辿った苦難の道程も偲ぶことができる。
第1号の本会設立過程の報告に比べ、第2号には悪夢のような、10年に及ぶ大学紛争が解決して、新理事会発足のニュースを、石橋名誉会長、小沢前学部長によって、伝えられると同時に、正会員の職場紹介、職場別組織、クラス別同窓会開催記事等の寄稿を依頼し、新技術の開発報告、会社の現況と技術面の紹介、個人の研究発表等も積極的に行っていく姿勢で、会員の相互理解と援助を実現できるように企画し、第3号から今日まで続けており、1号当り数編が発表され本会の目的達成の一助となっている。
このようにして電気会は同窓会として、大学と卒業生の結び着きをもっとも身近なものとする、最小の単位として、重要な役割を果たしていくことを願っている。
本会も発足以来25年を経過して、大学と卒業生の結び着きをもっとも身近なものとするため重要な役割を果たしてきた、最小単位の同窓会であるが近年より魅力ある会の運営を望む声もあり、5つの委員会を設置して多数の会員から貴重な意見を聞きながら改善の努力を行っている。
又昭和51年11月には開学50年を祝って理工学部同窓会主催の記念式典を名古屋観光ホテルで行ったが、当日は千人を越える卒業生及び関係者が集る盛況さであった。
電気会としては開学以来の写真をできる限り収集し「理工学部の歩み」として纏め来場者に記念品として配布した。
この50周年が契機となって各学部の卒業生が年毎に団結する気運が高まり、加えて校友会の会長に理工学部出身者が就任したこともあり、昭和61年9月には全学あげて開学60周年を祝う記念フェスティノベルが行われたり、大学側も21世紀に相応わしい施設の整備拡充計画の完了にともなう披露式典が挙行された。

以上のように過去の大学紛争による傷跡も少しずつ癒えて来た今日、本会会員の先輩諸兄より創設者田中寿一先生の功績を称えるため、銅像を建立してはとの意見もあり一日も早く実現できることを望んでいる。

第6節 機械会発足

名城大学機械会は当初教職員ならびに卒業生をもって構成し、発足した。発会式は昭和32年2月24日午後1時から中村校舎で開かれた。発会式に先立って、昭和31年11月頃、現在の東桜通りの西南角近くの大衆料理屋(この料理屋は現在無くなっている)で発起人会が催された。出席者は伊藤萬太郎教授を始めとして、小沢久之巫、藤吉正之進、今里隆次、大西欣一の諸先生方約10名と卒業生20名の合計30名であった。

昭和32年2月24日中村校舎にて、機械会の発会式及び第1回総会が開催された。この総会で次の役員が選ばれた。初代会長に伊藤萬太郎教授、副会長に小沢久之巫先生、庶務担当幹事に藤吉正之進、編集担当幹事に今里隆次、会計担当幹事に鈴木清二の諸先生であった。卒業生の庶務担当幹事に螺沢一男(学1回卒)、天野博司(専5回卒)、会計担当幹事に松浦清(学1回卒)、山尾昇(専4回卒)、編集担当幹事に真下邦雄(学1回卒)、近藤信雄(学2回卒)の諸氏がなり、評議員には、水越隆太(学1回卒)、松浦清(学2回卒)、堀田義行(学2回卒)の諸氏を始めとして21名の卒業生がなった。

当時、昭和31年までの卒業生の総数は、名古屋専門学校の機械科が10回で252名、紡織科が1回で9名、大学の機械工学科が3回で204名、短大の機械科が1回で52名を合せて約500名であり、在学生が464名であった。
現在の卒業生約3,500名、在学生約1,600名であるのに比べると隔世の感がある。
会計面からの機械会の推移を会誌の記録によって眺めてみると、卒業生は年会費300円であった。会費納入の状況は32年度41名、33年度101名、34年度73名であった。その他に学生より会誌代100円を徴収していた。会誌には卒業生および学生の名簿も含めていたので年々会誌代が高み、又学園紛争解決に東奔西走していたので、会誌も昭和36年9月の第4号までで中止のやむなきに至った。そして機械会の活動は、新入生歓迎会や卒業生予銭会等で僅かに継続されていた。
その後、理工学部同窓会が校友会に加盟したことに伴い、卒業生のみをもって再発足した。再発足後、会則が一部改正され。その中では正会員に名古屋高等理工科学校の機械科の卒業生も含まれることになった。会誌もその後再刊され第7号に至っている。
このようにして年の移り変りにともない、学舎の所在地が駒方から中村そして天白台地へと変遷しながら、本会の母体である機械工学科は発展を遂げ、それに伴って本会も発展実充し、現在にいたった。
この度、校友会発足以来15年目を迎えるに際し、これを記念して校友会史の再刊がなされ、その機会を本会も得ることができたので、前段(初刊)に引き続いて、昭和49年以後の主な行事等を補追の形で足跡を印しておくことにする。
昭和50年3月には第1回機械会杯ソフトボール大会(機械4年生と教職員による)が行なわれ、新入生歓迎会や卒業パーティーとともに、一つの定例行事となっている。
昭和52年には、機械会発足以来、20周年を迎え、同年6月12日(日)に総会とともに機械会20周年記念式典を中村校舎時代よりお世話になっている墨さんに御無理をいって、第2食堂にて盛大に行われた。
これに伴って、「機械会のあゆみ」を出版し、記念植樹として「桜」を天白校舎の周囲に植樹した。そして、10年が経過し、昭和62年には、発足以来、30周年を迎えるに至り、同年9月12日(土)機械会30周年記念祝賀会がホテル・キャッスルプラザ(名古屋駅前)で開催された。
名城大学機械会の三役であった会計の鈴木清二先生(昭和62年3月)と、庶務の藤吉正之進先生(昭和63年3月)が、それぞれ定年退職されました。
発会当時の三役の先生は、全員現在の機械工学科を去られ、機械会も文字通りの一人歩きとなる。
この歴史とともに、機械会の会費も、さらに少しずつ値上げをせざるをえず、昭和51年度(昭和51年4月〜昭和52年3月)より、これまでの2,000円から5,000円に、また昭和57年度(昭和57年8月〜昭和58年7月)より現在まで、10,000円となり、毎年卒業生全員から徴収されている。
機械会誌の発行は年1回発行され、昭和62年7月には機械会30周年特集号として、第21号と9月に30周年記念号外が発行された。
この特集号には、機械会30年のあゆみとして、会員数の推移、実験研究設備の移り変わり、ならびに機械会の沿革と行事の概略が掲載されている。 会員数は、名古屋高等理工科学校=277名(一部=125名、二部=152名)、名古屋尊闇学校=256名(一部=120名、二部=136名)、名城大学=6,693名(一部=4,467名、二部=2,226名)で、昭和62年3月までの会員総数は、7,226名に至った。

第7節 交通機械会発足

昭和45年7月19日の設立総会開催により誕生した名城大学交通機械会は、初代会長に南形憲昭氏(第1回卒業生)を選出し、歴史の第1歩を踏み出した。その後、昭和55年からは第2代会長として高垣満正氏(第5回卒業生)、昭和59年からは第3代会長として江場正樹氏(第7回卒業生)、平成4年には第4代会長として大畑一久氏(第2回卒業生)が選任され、大畑会長のもと、平成7年9月23日には交通機械会創立25周年記念行事として、水尾衣里氏(当時:名古屋女子文化短期大学助教授、現在:名城大学人間学部准教授)に「学生という仕事?」との題目で記念講演、その後の記念式典・祝賀会が、200名を超える方々の出席者を迎え、大盛況のうちに式典を終える事ができた。この記念行事の成功を弾みとして、交通機械会の活動がより活発化した。
平成8年には、第5代会長として庵原英雄氏(第3回卒業生)が就任し、会長の発案で会員相互および学科教員との親睦と情報交換を目的として、新春賀詞交換会が開催されるようになりました。また、交通機械会の会報誌“交通機械会UPDATE”の発行、在学生の就職活動を支援するための就職セミナー「面接マナー教室」の開催を実施しました。平成16年9月25日には、交通機械学科40周年、交通機械会35周年を祝う記念行事として、下垣真紀氏(日独 ひとと文化論)音楽大国ドイツに暮らして」と題した記念講演並びに、「記念式典・祝賀会」が実施された。
平成16年には、第6代会長として永津圭介氏(第10回卒業生)が選任され、永津会長を中心とする役員は、これまでの活動の継続に加えて、学科で実施しているJABEE及び卒業生論文発表会に対して、審査員の派遣などの協力を行った。
平成21年に、第7代会長 再度 高垣満正(第5回生)に引き継ぎ学科の先生方との交流も深め、より一層活発な活動を継続している。特に昨年は、HPもリニューアルして、会員への情報展開の活動にも力を入れ、現在に至っている。
交通機械会発足当初は会員数も少なく、年齢的にも若く、ともすれば活力低下につながる状況の中で、歴代学科長はじめ多くの先生方、また、歴代の会長はじめ多くの役員の方々のご支援とご協力により、今日の交通機械会が構築され、より組織的な運営ができる体制へと変化しつつあります。 
なお一層充実した交通機械会へ進化させて行くために、今後もご協力を賜りますようお願い申し上げます。

第8節 土木会発足

名城大学土木会は、名城大学理工学部同窓会が昭和36年に設立された後、3年遅れの昭和39年に正式に発足し、理工学部土木工学科・建設システム工学科の卒業生を会員とし、建設システム工学科及び社会基盤デザイン工学科の在学生を準会員とした同窓会組織であります。

昭和36年理工学部同窓会が設立され、かつ、土木会を設立すべく発起人会が結成された。発起人会は学部ならびに高専卒業生によって構成され、仮称を土木会設立準備委員会とし、発足に伴う諸問題について審議を重ね、初代会長に河内睦雄教授が就任しとぃる。二代目以降の会長は卒業生が歴任している。

本同窓会は、学科や大学院の卒業生からなり一万人を超える会員で組織され、会の目的である会員相互の交流・学問の向上・学科の発展に寄与するため、毎年総会を開催し会員ならびに準会員に対し各事業を実施している。なお、平成26年秋には名城大学土木会創立50周年を多数の会員の参加による記念事業を盛大に開催し、現在に至っております。

第9節 建築同窓会発足

昭和37年夏、卒業生の要請もあり、同窓会設立準備会を10名程で開催した。その後、昭和38年6月23日に第1回設立準備発起人会を開いた。審議内容は会則案ならびに役員候補者推薦の方法、在学生の準会員としての取り扱い等であった。第2回発起人会は同年7月14日開かれ、学生代表と会員資格について協議した。第3回発起人会は同年8月11日に会則審議および建築同窓会設立総会開催について審議した。第4回発起人会は同年9月1日に総会開催について最終打合せを行った。
設立総会は同年9月22日に理工学部(中村校舎)大教室で開かれ、名称を「名城大学建築同窓会」と決定し、初代会長には後藤進氏(二部1回卒)を選出した。後藤進会長は任期なかばにして病に伏し、39年4月29日、薬石の効なく逝去されたので、その後の会の運営は副会長3名で進められた。
第2回総会を同年9月13日、理工学部大教室で開催し、会長に赤坂良輔氏(一部4回卒)を選出した。ひき続き田淵寿郎氏(名古屋観光会館社長)の「名古屋市の都市計画が出来るまで」と、堀内孝英(一部8回卒)、金子林爾(一部8回卒)の両氏による「新潟地震調査報告」の講演が行なわれた。
第3回総会を昭和40年6月20日、理工学部大教室で開催、総会後に講演会を催し、名古屋工業大学城戸久教授による「犬山城について」の講演が行われた。昭和40年度事業の一つとして建築同窓会会報創刊号が昭和41年6月に発刊された。
以降、現在まで諸先輩、建築学科先生方のご協力、ご尽力により同窓会活動をしてまいりました。
又、平成25年1月に建築学科65周年・建築同窓会50周年の記念式典をアイリス愛知で開催することが出来ました。
今後も卒業生の皆さま、建築学科先生方、現役学生と共に同窓活動を通して、母校との絆を深めてまいる所存であります。

第10節 情報会発足

2000年4月に6学科から9学科への改組と同時に発足した情報科学科の第1回の卒業生が卒業を控えた2003年9月11日寺澤邦彦先生から情報科学科教員全員に電子メールが送られた。内容は、情報科学科同窓会設立準備委員会の委員の各研究室からの推薦を依頼するものであった。この結果選出された10名の院生及び4年生と寺澤先生により、同年10月14日、第1回設立準備委員会が開催され、会則及び第0期(2003年10月から2004年3月31日まで)の事業案と予算案が話し合われた。

そして、2004年3月16日卒業式当日、学位記授与式に引き継いで情報会設立総会が共通講義棟(現在の共通講義棟南)102講義室で開催され、正式に発足に至った。初代会長には水野邦彦(1回卒)が選ばれた。

第11節 材料会発足

材料会は、名城大学理工学部材料機能工学科の同窓会組織である。その歴史をここに記録として残すにあたり、材料機能工学科の歴史から振り返る必要があるだろう。材料機能工学科は、理工学部の新設3科の1つとして、平成12年(2000年)4月に設置された。第1期生が4年生となり各研究室に配属された平成15年(2003年)に、杉下潤二教授の指導の下、ソフトボール大会や卒業記念パーティーなどのイベントの運営を目的として、「Z会」と名付けられた組織が学内に設置された。その組織内の係りの1つとして同窓会立ち上げ係が置かれ、池邊由美子を中心とした役員で話が進められた。具体的な活動としては、大きく3つの活動が挙げられる。1つ目に、同窓会組織として今後活動していく上で重要だと考えられた卒業生名簿の製作。2つ目に、卒業生からの会費の徴収である。卒業前に終身会費として徴収する形態はこの時作られ、今も継続している。この方法は、会費納入率が極めて高く、非常に有効であると言える。そして3つ目が、同窓会組織の会則作成である。これは、他学科を倣い、材料機能工学科の同窓会組織としてそぐわない部分を修正したのち決められた。これは、こうしてある程度の基盤が完成し、第1期生が卒業した平成16年(2004年)3月の翌月4月に、「材料会」と名付けられ、杉本英昌を会長に、池邊由美子を副会長兼会計に置き、役員全員を元Z会のメンバーで構成された材料機能工学科の同窓会組織が誕生した。

第12節 環境会発足

名城大学理工学部環境創造学科は、社会につながる、未来につながる、人類は自然と人間が共生できる「環境創造」自然と人間の明日を考え、環境に関する課題は、山のように積み上げられたままです。「自然環境系」(気圏、水圏、地圏)と、「都市・住環境系」(住環境、都市環境)からなる教育体系により、環境を軸とする循環型社会経済システムへの転換が求められている社会の成り行きを先取りし西暦2000年(平成12年4月)に創設されました。

これをうけて、名城大学環境会は、環境創造学科卒業生、環境創造学専攻修士課程修了生93名及び環境創造学科現教員・旧教員13名をもって構成し、会員相互の交流・親睦を諮るとともに学問の向上に努め、さらに名城大学理工学部環境創造学科の発展に寄与することを目的として西暦2004年(平成16年3月)に創設され今現在の会員数は1220名の環境創造学科の同窓会組織です。

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